大分大学医学部の猪股雅史先生は、これまでに何度も、がん患者からこの質問を受けました。抗がん剤はすぐれた治療効果を上げる一方で、いくつかの副作用が起こります。その一つが脱毛です。

「脱毛は、抗がん剤治療で患者さんがもっとも気にされる副作用です。その心理的ダメージは相当なもので、髪の毛が抜けるなら、抗がん剤治療はやりたくないといわれる方もいます。しかし、脱毛は直接命に関わる副作用ではないため、医学的にそこまで注目されてきませんでした」

患者さんの気持ちと医学的観点との間に溝を感じていた猪股先生は、「脱毛で悲しむ人を減らしたい」という思いから、抗がん剤脱毛の研究をスタートさせます。そうして生まれたのが、脱毛を抑制する“新規αリポ酸誘導体”です。強い抗酸化作用を持つこの物質は、毛根組織のダメージを防ぎ脱毛を抑制します。

「研究には、研究費や人員確保が不可欠で、そのためには企業の協力が必要でした。そこでご縁があったのがアデランスです」
しかし、アデランスはウィッグの会社です。社内からは「脱毛予防の研究をしたら商品の販売に影響が出るのではないか」という不安の声もあがりました。それを一蹴したのが、現社長・津村佳宏の一言でした。
「そのとき津村さんは『これは社会にとって必要なことだ』とおっしゃいました。目先の収益ではなく、社会の未来を見据えていたのだと思います」

2013年からは、大分大学とアデランスによる、新規αリポ酸誘導体の実用化をふまえた研究チーム体制がスタートしています。臨床実験では、新規αリポ酸誘導体のローションを使うと、抗がん剤終了後3か月で80%の人の髪の毛が回復したのです。

「ある患者さんが『脱毛が抑えられたことで夫が喜んでいた』と、うれしそうに報告してくださいました。脱毛は本人はもちろん、見守るご家族もツラいのです。この研究が、患者さんだけでなく、ご家族の笑顔もつくるのだと知りました」


猪股雅史先生
大分大学医学部 消化器・小児外科学講座教授。
大分医科大学大学院 医学研究科博士課程修了。
抗がん剤脱毛を抑制する新規αリポ酸誘導体の研究開発を手がける

取材・文/中村未来 撮影/瀬口陽介